原図サイズ:34㎝×53㎝武蔵国比企郡南方石坂郷(現在の埼玉県鳩山町)の土地をめぐる争いに健治3年(1277)北条時政・時宗の出した裁許条です。亡父の遺領をめぐる駿河彦四郎有政と姉平氏(弥鶴)の争いを、過去の譲状のとおり、姉の所有を認めています。引付頭人(ひきつけとうにん)とは、訴訟の担当者で、美濃国加茂郡蜂屋庄(現在の岐阜県美濃加茂市付近)をめぐる争いに対して、暦応4年(1341)10月28日同職にあった吉良貞家よりだされた文書です。元応元年(1319)5月20日付の、武蔵国比企郡南方南方中尾郷内(現在の埼玉県滑川町)の土地の譲状です。丹後国倉橋庄与保呂村(現在の舞鶴市)の地頭職が、建長3年(1251)八月三日付で、平光度に補任されました。将軍藤原頼嗣(ふじわら よりつぐ)は鎌倉幕府5代将軍、陸奥守平朝臣は北条重時、相模守平朝臣は当時の幕府の執権北条時頼(ほうじょう ときより)です。佐々木 頼綱(ささき よりつな1242-1311)が、二男義綱に、近江国高嶋郡朽木庄(現・高島市)と常陸国真壁郡本木郷(現在の茨城県桜川市)、の二か所を譲与したことを示す文書です。両所とも、祖父及び頼綱本人が勲功により与えられたものもであるから、それを意識して治めるようにと記されています。弘安10年(1287)2月28日の日付があります。朽木稙広(くつきたねひろ)が朽木庄の一部を、天台宗寺院松蓋寺(しょうがいじ)へ売却することを記した文書の案文です。永正15年(1518)12月の日付が記載されています。鎌倉・南北朝時代の武将、佐々木道誉(京極道誉とも。1296-1373)の建武5年(1338)閏7月16日の書状。出羽四郎兵衛尉(朽木頼氏)に対して、吉野出兵のために上洛を促したものです。 串カツ 田中 足利店 (足利/串揚げ・串かつ)の店舗情報は食べログでチェック! 【喫煙可】口コミや評価、写真など、ユーザーによるリアルな情報が満載です!地図や料理メニューなどの詳細情報も充実。 朽木氏は近江佐々木氏の一族。鎌倉時代に近江国(滋賀県)の朽木荘の地頭となり、戦国の世を生き抜き、江戸時代になってからも、旗本あるいは大名として存続しました。『朽木家古文書』は同家に伝えられた古文書で、明治21年(1888)に内閣記録局が朽木家から購入したもの。 ^ 田中 2013, p. 133, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」内の「足利・北条両氏関係系図」. ^ 田中 2013, p. 131, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」。 佐々木道誉は名を高氏といい、31歳で出家して道誉と称しました。初め北条高時に仕え、のちに足利尊氏に従って室町幕府の創設に貢献した人で、文学と芸術を愛し、婆娑羅(ばさら)と呼ばれた華美奔放な風俗を好んだことでも知られています。尼心阿(佐々木行綱の女子)と佐々木(朽木)義信の間の所領をめぐる争いが和解した際に作成された、暦応2年(1339)の9月11日の文書。このような文書を和与状と言い、訴訟の経緯や和解の条件を記して訴訟の当事者間で交換されました。文面に「三問三答の訴陳に及ぶと雖も」とあり、心阿と義信が激しい論争を繰り広げた様子がうかがえます。尼妙語(佐々木行綱の母)の譲状。正応5年(1292)10月24日に作成されたこの文書の中で、妙語は、息子の行綱は「ふけうのものなるによりて」(不孝者なので)勘当し、所領は甥の頼信に譲ると述べています。尼心阿の内容とあわせて、経済的に自立し強い発言権を持っていた中世武家女性の姿が目に浮かびます。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 07:05 UTC 版)固有名詞の分類辞書ショートカットカテゴリ一覧すべての辞書の索引Weblioのサービス 永禄八年以前の時点では、六角氏とその隣の若狭武田氏は将軍足利義輝の大事な後援者であり財政基盤でもありました。 また田中城の城主の田中氏も同族の高島氏、朽木氏と同様に、代々、非常に将軍家に忠誠厚い家柄でした。 田中家のツゲの観光情報 交通アクセス:(1)間々田駅から徒歩で15分。田中家のツゲ周辺情報も充実しています。栃木の観光情報ならじゃらんnet この起請文は、浅井・朽木両氏の同盟関係を強化するために作成されたものですが、元亀元年(1570)、朽木元綱は浅井氏との盟を破って織田信長に加担。浅井氏は姉川で織田・徳川連合軍に敗退したのち、天正元年(1573)8月に織田軍に小谷城を囲まれ、久政・長政父子は城内で自害を遂げました。元亀2年(1571)7月5日、織田信長(1534-82)が朽木弥五郎(元綱)に与えた朱印状です。朱印は馬蹄形(馬のひづめの形)で印文は「天下布武」。武力による全国制覇の意志が読み取れます。この朱印状で信長は、使者を派遣して恭順の意を表した元綱に対して近江国須戸荘の代官職を安堵すると共に、新たに知行を与えることを告げています。文禄3年(1594)9月21日付で、豊臣秀吉から朽木元綱に対して出された朱印状です。伊勢国安濃郡(現在の三重県)57,878石の豊臣蔵入地代官として新庄東玉斎(直忠)とともに沙汰すること、当蔵入地の中から2000石を扶助することなどが記されています。形式は折紙です。豊臣秀吉(1536-98)から朽木河内守元綱(かわちのかみ・もとつな 1549-1632)に宛てたもの。秀吉の朱印が捺され、7月10日の日付があります。元綱は天正18年(1590)に河内守に任ぜられているので、それ以降の作成。盆の祝儀として鯖(刺鯖・さしさば)が到来したことに礼を述べるとともに、検地(太閤検地)についても触れています。文中に見える「長束大蔵」は、検地奉行を務めた長束正家(なつかまさいえ)のこと。豊臣秀頼(1593-1615)の黒印状。秀頼から、朽木兵部少輔宣綱(ひょうぶのしょう・のぶつな 1582-1662)に宛てたものです。5月4日の日付があるだけで作成年は記されていませんが、宣綱は慶長2年(1597)6月に兵部少輔に任じられているので、慶長3年以降の作成と思われます。 朽木氏は近江佐々木氏の一族。鎌倉時代に近江国(滋賀県)の朽木荘の地頭となり、戦国の世を生き抜き、江戸時代になってからも、旗本あるいは大名として存続しました。『朽木家古文書』は同家に伝えられた古文書で、明治21年(1888)に内閣記録局が朽木家から購入したもの。 紙が貴重だった昔は、手紙など書かれた紙の裏面にまたぜんぜん違う文を書いたりして、ようは紙を再利用することがよくありました。そんな再利用紙を使って書かれた文書を後世の研究なんかでふとひっくり返してみると、思わぬ記録が見つかることがあって、これが「紙背文書」といわれるもの。 平成26年(2014)、『米田家文書』の紙背文書にこんな記録が確認されました。 右の一部は、 この記録は「 ちなみに米田貞能(のち 永禄9年(1566)といえば、明智光秀の年齢は39歳(享年55歳説)か51歳(享年67歳説)。既に壮年、もしくは老年に差し掛かった年齢といえますが、このとき田中城に籠城していたとすれば、謎の多い彼の前半生に新たな光が当たることになります。 9月に入ってなお続いていた暑さも、神戸では先週あたりから涼しい風が吹きだして、ようやく夏の終わりを感じています。 しかしこの夏も暑かったですねえ。リアルに城跡を攻める趣味の方々にはおなじみながら、夏の城跡、特に山城跡は藪と虫との戦いで敬遠されがちです。とはいえ結局ファンの習性として、私もこの夏いくつか山城跡を巡ってはおりまして、そのひとつが今回ご紹介する滋賀県の この城跡、特に標高が高い訳ではなく整備の手も入っていた様子があるんですが、どうも間に合ってないようで藪化が進んできてました。おまけに欲張って山奥へ入りすぎ、雨上がりの斜面を直登しようとしてプチ滑落するなど、わりとえらい目に遭いました。 トレッキングパンツを泥だらけにしてトホホな城めぐりでもあったんですが、結局ダニにも藪蚊にも刺されずに下山できたのは、ブロ友の「怜のお父さん」殿に教えてもらった↓の力が大きいと思っています。 防虫メッシュパーカー(AEGハンターズショップ) これ、ほんとスグレモノでした。昨年から愛用してるんですがね、ぶーんと飛んできた藪蚊がこのパーカーに取り付こうとして取り付けない様子は面白いくらいで、ガードされてない顔面や手指にふわふわ流れてくるんですよ。私としてはピンポイントに防虫スプレーをふっておけば良いし、メッシュなので暑くもありません。洗濯してもあまり効果が落ちないし、同好の方々にはお勧めです(^^) おっと。思わず話がそれてTVショッピングみたいになってしまいました(^^;今回の舞台となる田中城は、 「上寺城」や「上ノ城」の別名がある田中城は、豊臣家で重用され、後に筑後柳川32万石の大名となった 登城口より。地元の方が作業に入られていたようで、この日は獣避けフェンスが開いていました。 竹藪の中に曲輪跡が見えるのを横目に登ってくると、土塁上に金刀比羅宮の跡(写真上左)がありました。この辺りは土塁や曲輪跡などけっこう遺構があるんですが、写真にすると上右のようになってしまいます。 夏の城跡は伝わりにくさもアップしますねえ。角度を変えて何枚か撮るんですが、止まると藪蚊が顔面に寄ってきて鬱陶しいので次へ行きます(-_-;) こちらは写真のようにかなり高さのある切岸の横に、わりと急な石段が設けられています。田中城は「高嶋七ヶ寺」のひとつに数えられた同寺の遺構を取り込む形で占地されていました。 「天守台」とされる土壇上より主郭を見たところ。田中城は比高わずか60mながら、眼下に西近江街道から琵琶湖方面を見下ろし、西は朽木街道(別名:鯖街道)をも扼する絶好の立地にありました。 この城の名は『信長公記』にも何度か登場していて、 元亀元年(1570)4月21日、 このとき田中城は織田方の影響下にあったようですが、同年9月のその後は信長から志賀郡を与えられた明智光秀の支配を受け、光秀の滅亡後、廃城となったようです。 主郭から奥へ分け入ると細尾根(写真上左)が続き、その先は堀切で遮断(写真上右)されていました。 前面に展開する広大な遺構群に比べ、主郭背後の守りがこの堀切ひとつ…?と疑問を感じてしまった私は、堀切を越えてさらに山奥へ入り、遺構を探してさまよい歩くうちえらい目に遭ったのは前述の通りです(--;) さて、話はでは永禄9年(1566)ごろ、田中城を含む高嶋郡一帯がどんな状況下にあったかというと、ここに興味深い史料があります。 が また、 ここで冒頭の『米田家文書』も振り返って、諸史料から見えてくる情景を整理してみます。 永禄9年(1566)。優勢な浅井方に付いて生き残りを図る者がある このとき田中城に入った明智十兵衛こと光秀は、おそらくは幕府方から織田家に仕官する5年前、若き明智光秀の姿です。 ここからあぶり出される光秀の姿には、少なくとも「全国各地を武者修行していた」「越前朝倉家に仕えていた」といった彼はおそらく若いころから室町幕府に仕えた幕臣で、さほど高い身分ではないながら、文武に慣れた有能な人物として認められてはいたのでしょう。その彼が歴史上の存在として大きく踏み出すことになるのは、およそ2年半後の いやー、夏の城巡りは本当に疲れますし汗をかきます。ここを降りてきたあとのコンビニで、こんなときにぴったりの“ご当地もの”を見つけました。 「なんと原材料には、あの「鮒ずし」を使ってるんですよ。ちょっと驚きのコラボですが、これが意外にいけました。予想された臭みはなくて、酒かすも入ってるので米由来の酸味を感じます。たぶん滋賀県でしか売ってないような気がするので、夏バテ対策に… おっと、もう夏も終わるんでしたね^^; 【田中城跡】滋賀県高島市安曇川町田中