ユースホステル(yh)では夜、ミーティングという集まりをして宿泊者全員で歌を歌ったり、踊ったりバカ騒ぎをすることがあります。(最近は激減しましたが) そして昔から伝統的に歌い継がれている【名曲】が多くあるのです。
ユースホステル(以下、YH)は近年数も大幅に減り、利用者も減りと寂しい限りの減少を続けてきましたが、特に若い方には事実私は東京で生まれ育ち、横浜に長いこと住んで札幌に家族共々移住したのはYHでの旅の経験があったからなのです。関連記事: YHでは夕食後(大体20時頃から)ミーティングという集まりがあります。ここではスタッフから(ヘルパーと言う)翌朝の説明、近隣の観光案内、交通の案内(バスや電車の時刻など)などのあとに皆で歌を歌ったり踊ったり、バカ騒ぎをしたりします。YHによって内容や程度は大きく異なり、静かに話をしてお茶を飲んで終わりもあれば真っ暗な外で騒いで踊ったりもあったりします。しかし近年ミーティングで歌を歌ったりバカ騒ぎをするYHは激減してしまい、ミーティングそのものもないYHが増えたようです。 時代の流れであり、人の嗜好の変化ですので否定もしませんし、当然のことと受け止めます。しかし私はYHのバカ騒ぎ全盛時代を経験して、一番得たものは「多くの素晴らしい歌との出会い」でした。YHで歌った歌と言うのはあくまでも私が泊まりまくっていた1970年代半ば~1990年ごろまでのYH全盛~YH下火時代のことです。もちろん2018年現在も歌って騒いでというYHもあることにはあるようです。YHで歌われる歌は往年のフォークソングが殆どで、一部どこかのYHで生まれて各地に広がった名曲などもあります。また曲は地域性がある程度あり、北と南では違うとかもあります。 私は一応北海道~沖縄までのYHを延べ300泊以上泊まっていますが、北海道と信州に偏っています。そんな中よく歌われた、心に残った歌をいくつかご紹介いたしましょう。この曲は確か北海道の礼文島で泊まった人(ヘルパー?)が作った歌で、旅人の心を捉えて離さない名曲中の名曲です。YouTubeなどにもあがっているようなのでご興味のある方は検索してみてください。信じられないかもしれませんが、この曲を聴いて涙を流す人も多いのです。出だしは「夢のような、旅だった、遠い北の国の~」、最後は「こんなつらい旅なんかもう嫌だ、旅を終わろう、汽車に乗ろう」です。私も初めて北海道を訪れた時から数え切れないほど野中温泉YHに泊まっていますが、やはり最初の1泊目でこの歌を「叩き込まれ」ました。この曲もレコード化されましたしYouTubeにもあるようです。参考記事: 今時「覚えるまで帰さない」なんて行ったら「パワハラ」、「虐待」、「人権侵害」と散々なことになりますが、昔のYHではこういう言い方も今で言う「お笑い」だったのです。特に連泊者は船で稚内に戻る人のお見送り、稚内からやってくる人のお迎えが日課だったのでこの歌を覚えることが必要でした。港の船の前でこの歌を大声で歌いながら踊るのですが、以下、曲の歌詞の抜粋です。(レコード/CD化はされていませんが、YouTubeで見送り風景で歌が聴けます。)「稚内から船が行く~あれがうわさの利尻島~男も惚れるあの勇姿~」京都を舞台に(京都という名称は一切歌詞には出てこない)、心に染みるフレーズをスローテンポで聞かせます。この曲は「釧路まきばユースホステル」(廃YH)でよく歌われていました。参考記事: 初めて聞いたときにこの曲が大好きになり、カラオケにもあるのでよく歌います。フレーズの主な部分は以下ですので、ぜひYouTubeなどを検索して聞いてみてください。「下駄の音、路地裏通り~」「北へ、北へ、北へ行く船の~」というフレーズが北海道への(おそらく)旅を連想させるからでしょうか?北海道であればどこのYHでも歌われたわけではありませんが、しみじみと旅心をくすぐる曲で、単に旅の感動だけではなくて明日の勇気をくれる曲です。この曲もYouTubeにはあるようですし、カラオケにもあります。名曲、秘曲とも言える曲なのでぜひ聞いて頂きたいです。他にもYHで歌われた歌は数え切れないほどあります。YHは全世界的な運動(宿泊施設ではなく旅先の教育機関という位置づけがYHです)ですが、歌を歌いバカ騒ぎをしていたのは(過去であっても)日本だけだと思われます。でもYH全盛時代に泊まって多くの隠れた名曲、または私が幼少時に興味を示さなかったけど青春期以降に聞いて感動したフォークソングなど私の人生や人格形成に大きな影響を与えてくれたのはこれからもこれらの歌を常に心中で口ずさみながら毎日を送りたいと思います。スポンサーリンク自分が入会したのは1986年2月なので、そのころは歌い踊るミーティングはほぼなかったです。むかし、「小平町望洋台YH」ってとこがあって、あたしはそういったミーティングの場に立ち会ったことはないので、あたいはむずかしいことはよくわかんないけれども、はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみん様YHで歌うような歌ではなかったのかな?「小平望洋台」は泊まったことがありますが、やはり歌の記憶がないです。若いときはバカ騒ぎミーティングも楽しかったですが、行く先々で、となると流石に疲れます。ああ、忘却の彼方に過ぎ去った思い出たちよ・・・「旅の終り」について少し書きます。いら かおる様歌に限らずYHの口コミの速さというのはすごいなといつも思っていました。でも今はYH会員人口自体が激減していますし、泊まる人も昔のようなホステラーはほとんどいないでしょうから今のYHは「口コミで情報が伝わる」というのはあまりないでしょう。SNS以前の問題だと思います。青木清さんは1977年8月に美幌YHでお会いしましたが、私より年上とはいえ、とても素敵なお兄さんで彼の生歌声は今でも鮮明に覚えています。旅の終わり、は私の頭から離れない一番の名曲です。情報ありがとうございました。青木 清さんは、その後シャンソンの世界に転身し、現在は「青木裕史(ひろし)」の芸名で活躍しています。いら かおる さま青木さんは今はシャンソンなのですか。ルックスもすばらしいお兄さんでしたね。山名敏晴さんの「旅の終り」いら かおる 様行く事が出来ず残念です。白老は1976年8月にたった1度だけ泊まりました。ところで「いら かおる 様」は横浜在住なのですね。私は東京生まれで23年在住。その後21年間、転勤族で北海道から九州まで、YHの旅のように全国を転々。ようやく1995年から横浜に定住?しています。いら かおる様全国で暮らされたのですね。まさに「旅」ですね。旅の終り、はいろいろあったようですが、それだけ多くの人の目に耳に触れた結果育てられた名曲なのでしょう。このような曲はおおっぴらになってほしくないです。昭和52年に「旅の終り」が各社競作となりました。これは前年の「四季の歌」の大ヒットを受けて、各レコード会社が「2匹目のどじょう」をねらって、ユースホステルの愛唱歌に目を付けたことによります。いら かおる様旅の終り、の競作は鮮明に覚えています。名前は言いませんが大物歌手も起用されていましたね。売れなくて当然です。このような手法は今でもありますが、2匹目のドジョウは皆失敗していますね。「時計台の・・・」は大好きです。YHで歌われた歌は、たとえば元がフォークの大御所とかでない限り一般には絶対にヒットしないと思います。YHやYHのミーティングを知らない人からすれば、YHで歌われた歌は所詮、「大昔のフォークソング」や「童謡の延長線上の曲」にしか感じないと思います。でもわかる人だけわかれば良いと私は思います。1年ぶりです。「旅の終り」の作者「舟橋俊久」さんを検索したら、ご本人のFBを発見しました。舟橋さんは名古屋大学を卒業したあと明電舎に入社し、電気工学の分野で活躍されました。その後名大を経て2018年に沖縄に移住し、琉球大学で教鞭をとっていらっしゃるようです。ある意味、舟橋さんの「旅の終り」なのかもしれません。いら かおる様そうでしたね、舟橋俊久さんですね。今はそれなりのご年齢になられているのですね。(数分おきに頂いたものと同じコメントが3通ありましたので、あとの2つは削除しました。何かのバグか誤動作だと思います。)「旅の終り」を作った舟橋俊久さん。最初にレコーディングした山名敏晴さん。お二人とも昭和26年(1951)の早生まれで、69歳です。(なぜか私もです)いら かおる様舟橋さんもうそのようなお年なんですね。名曲というのは必ずしも世間の多くの人に認知されるものばかりではありませんが、やはり名曲は名曲。LPやCDなどの情報もありがとうございます。名古屋大学の学生だった舟橋俊久さんが北海道旅行し、その思い出を「旅の終り」という曲にまとめたのが昭和45年(1970)のことでした。つまり「旅の終り」は2020年の今年、生まれて50年を迎えたことになります。いら かおる様そうですか、50年とは。YHで歌われる歌というのは時代を超えて口伝えで伝わって来ていますし、これからもそれは変わらない事でしょう。でもYHで歌われてYHと無関係の舞台に出て来た曲は「旅の終わり」含めて殆どありません。ただYHに泊まらない人にも心に響くはずなのでその辺は取り上げられても良いかな?と。こんにちは。私の名前は「 ノンダクレー」と申します。