47都道府県をみてみると県庁所在地の名前が県名と一緒だったり違っていたりしますよね。よく言われるのが『戊辰戦争』で幕府側についた藩に対する例えば、以下のように内戦に勝利した新政府側は『廃藩置県』で新しく作られた県名と県庁所在地が同名ですが、敗北した幕府側は異なっています。薩摩藩:鹿児島県/鹿児島市水戸藩:茨城県/水戸市ここで、少し日本史に詳しい人ならそもそも廃藩置県直後は300以上の県があり、賊軍の松山藩は『松山県』という名称に変わり、県庁は松山城のある松山(市)にありました。では、県庁所在地名と県名が違う理由とは何なんでしょうか?内戦に勝利した新政府は『徳川幕府』から政権を引き継ぎましたが、とにかくお金がない。つまり、県庁所在地の最大の条件は、1871年(明治4年)7月14日に実行された『廃藩置県』はその名のとおり、各藩主が支配していた藩を廃止し、東京にある政府が全て治めるために藩を県に置き換えた処置です。さすがに当時の役人も思ったのでしょう、今の愛知県ですが、ゆとり世代は名古屋県って言いそうです。今の石川県。金沢県のままのほうがブランドイメージありそうですよね。当時は以下5つの県で構成されており、四国ではなく『五国』でした。さらに統廃合が進み、 1881年(明治14年)には今よりも少ない3府34県になります。富山県として発足→新川県(にいかわけん)に改称→石川県に編入→分県の嘆願書を国に提出→石川県から分割され、再度富山県へ。福井県として発足→前身の福井藩が親藩だったので福井の名称を嫌い足羽県(あすわけん)に→再度改称し福井県へ奈良県として発足→堺県に編入→堺県の大阪府編入により『大阪府大和地域』に→大阪府から分割され、再度奈良県へ。鳥取県として発足→島根県に編入→島根県から分割され、再度鳥取県へ徳島県として発足→名東県(みょうどうけん)へ改称→一部分割されて高知県へ編入→分離独立し、再度徳島県へ香川県として発足→名東県に編入→分離して、再度香川県へ→愛媛県に編入→住民運動の末分離独立し、またまた香川県へ。佐賀県として発足→伊万里県へ改称→『佐賀の乱』の処分で各地域が周辺の県へ編入→長崎県に編入されていた地域が分離独立し、再度佐賀県へ。宮崎県発足→鹿児島県に編入→分県運動の結果、鹿児島県から分離独立し、再度宮崎県へ。今では普通に存在する県が一旦消滅していたのはビックリですね。 明治2年、徳川幕府の終わりを象徴する出来事として版籍奉還が行われ、274家あった大名家から土地と人民は全て明治新政府が管理することになりました。しかし、徳川幕府直轄領以外は大名家が結果として藩知事という立場で治めることとなり、結局は徳川時代と何も変わらない体制が続くことになります。旧幕府領は府や県が設置され、政府から知事が派遣されて統治を行っていたため、統治体制が府と県と藩に3分割されてとても非効率な体制となりました。これを「府藩県三治制」と言い、この非効 … よく言われるのが『戊辰戦争』で幕府側についた藩に対する報復措置です。『戊辰戦争』とは、徳川幕府軍と新政府軍(後の明治政府)が戦った内戦ですが、勝利した新政府側が「敵側についた藩はけしからん!(後世の国民にもわかるように)差別化する!」ということでこのようになった、というものです。例えば、以下のように内戦に勝利した新政府側は『廃藩置県』で新しく作られた県名と県庁所在地が同名ですが、敗北 …
今回ご紹介するのは、 版籍奉還によって藩の土地と人民が明治政府のもとへ渡ってからも、藩は存続しており、旧藩主は知藩事として地方統治を行っていました。明治政府は地方を統括しきれず、中央集権国家と変貌できずにいたのです。 今回はこうしたポイントを特に詳しく見ていくので、是非ご注目ください。もくじ廃藩置県(出典: 1868年の王政復古の大号令では、中央政府が江戸幕府から朝廷に移っただけであり、全国の藩は藩主の下で統治されていました。 その翌年の版籍奉還により、藩の土地と人民は明治政府のもとへ返還されることとなります。ですが、藩主はなおも知藩事として藩の統治権を持っており、中央政府の管轄外に置かれていたのです。 「廃藩置県」と聞くと、藩が廃止されたのと同時に府と県が置かれた、と思われがちです。しかし、 それが、1868年から行われた「府と県は明治政府の直轄であり、それぞれ知府事、知県事が派遣されて行政を執り行っていました。しかし、この制度にはいくつか問題があったのです。 まず、府と県は全国の4分の1程度であり、明治政府は財源の確保に苦しみます。また、藩と府県の管轄区域は複雑に入り組んでいて非効率でもあり、軍は各藩の軍隊からなされていたため統率がとれていませんでした。藩としても財政事情が厳しいことなどを理由に、正式に廃藩置県が行われるより前に、自ら廃藩を求める藩も相次ぎました。 こうした事情を背景として、 といったこれにより藩が廃止されたので、 次に、廃藩置県の目的について見ていきます。廃藩置県の目的の一つは、前の章で少し触れた、 大隈重信は、新国家の建設に必要なものは「軍事」「教育」「司法」「財政」の確立であるとしました。この実現のためには、府・藩・県が並立した非効率な状況は改善しなければならないとしたのです。 次に、廃藩置県の行われた時期、および廃藩置県前後の地図をご紹介します!廃藩置県が行われたのは、江戸時代の大名領地図(出典:次にあげる地図は江戸時代中期のものですが、廃藩置県前もこのように複雑な領地の構成でした。廃藩置県により、藩はそのまま県に置き換えられたため、今回は、その数か月後に3府72県に統合された、第1次府県統合後の地図をご紹介します。北関東3県は「宇都宮県」に 幻の28道府県案(出典:次の章では、廃藩置県で決められた県名の由来について見ていきます。廃藩置県において、新たに作られた県の名称はどのように付けられたのでしょうか。明治期から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・宮武外骨の著作『府藩縣制史』から探ってみたいと思います。 その著作によれば、明治政府に対して早くから協力の姿勢を見せ、王政復古に大きく貢献したとされた藩は、県となってもその名称の引き継ぎが認められました。 その一方、明治政府に対して当初刃向かった藩や、なかなか帰順しなかった藩などは、藩の名称を継承せず、郡の名称や山や川の名称を付けたとされています。 次に、県名と県庁所在地名が異なっている県がある理由について見ていきます。前の章で取り上げた宮武外骨の説から、県名と県庁所在地名の関係に関する説も取り上げられるようになりました。それは、 つまり、 ということです。前の章でご紹介した鹿児島県、山口県、佐賀県などは、確かに県名と県庁所在地名が同じですし、愛知県、茨城県、石川県の県庁所在地はそれぞれ名古屋、水戸、金沢ですね。 もちろん、 例えば、宇和島藩は藩主・伊達宗城のもとで幕末期に大きな存在感を放っていました。戊辰戦争時、宗城は新政府軍の参謀を務めていたほどでしたが、宇和島の名称は県名としては継続されませんでした。また、仙台県が宮城県に改称されたのは、藩の時代の古い習慣を残さないためであったとも言われています。 ですが、当時の人々が新たな時代に向けて気持ちを改めたいという思いがあったのは確かなようですね。 次の章では、沖縄が琉球藩として日本の領土となった事情を探っていきます!沖縄は、近世まで長らく琉球王国として、中国との貿易などで栄えていました。薩摩藩の島津氏の軍事制服により琉球王国は薩摩藩に服属していましたが、王国そのものは独立しており、中国との貿易も継続していました。 この琉球王国は、中国と冊封関係(中国皇帝である「天子」との名目的な君臣関係)にあり、中国を宗主国としていました。廃藩置県の翌年に、あえて琉球王国を琉球「藩」としたのは、のちに完全に日本の領土とするための布石を打つためでした。 実際、当初琉球側は服属する対象が薩摩藩から明治政府に変わっただけであるという認識が多かったようです。また、当時の琉球国王を「藩王」として残したのは、明治政府の中国に対する配慮でした。そして、 次に、旧大名たちが反抗したのかどうかについて見ていこうと思います!島津久光像それでは、廃藩置県により自らの支配地を奪われるという形となった旧大名たちは、反抗しなかったのでしょうか。それは、当時の時代背景と、明治政府の工夫のためです。 まず、戊辰戦争の影響を受けて、諸藩は多額の債務を負っていました。百姓一揆も頻発しており、こうしたことが藩主の頭をもたげていたのです。そのため、廃藩置県によりその土地を治めさせない処分というのは、 また、明治政府は旧藩主家に対し旧藩の10分の1の収入を当てるという、この上ない厚遇を与えました。さらに、版籍奉還の際、旧藩主たちは知藩事への任命権を自ら天皇に返還していたため、 ところで、それは、薩摩藩の 彼は幕末から長きにわたって薩摩藩の事実上の最高権力者として君臨し続けていました。明治政府が樹立したのちも、政府に対する反発を続けていたのです。 廃藩置県に際しては、反抗の思いから自邸で一晩中花火を打ち上げていたと言います。彼は生涯帯刀・和装を辞めなかったと言われているんですよ。 次の章では、廃藩置県による影響を見ていきます。廃藩置県そのものはスムーズに遂行されましたが、明治政府は新たな問題にぶつかることとなります。それは、 旧大名を懐柔するためもあって、藩の債務を政府は肩代わりする必要がありました。全ての公債が償還されたのは1921年のことでした。 また、この際に貸し手の商人たちは打撃を受けたため、大名貸し商人の多かった大阪は日本経済の中心としての地位を失うこととなりました。それでは、廃藩置県についてもう一度振り返ってみましょう。 廃藩置県は、1871年に旧来の藩を廃止して地方統治を府と県に一元化した政策です。西郷隆盛や大久保利通といった薩摩・長州の両藩のよりこの政策が推し進められた背景には、府・藩・県が併置されていた状況が非効率であったという事実がありました。 また、廃藩置県の際に付けられた県名や県庁所在地名は、明治政府に対して早くから協力体制を見せたかそうでないか、という観点から決められたという説がありましたね。 琉球藩は、明治政府が琉球を段階的に日本の支配下に置くために、廃藩置県の翌年に設置されました。 廃藩置県の際に旧大名層のほとんど反抗しなかったことには、彼ら自身が藩の統治に苦慮していたこと、明治政府が彼らを手厚く遇したことが理由として挙げられます。この際、旧藩の債務は明治政府が請け負ったので、その返済に数十年をかけることとなりました。 薩長土肥出身の実力者たちが続けていく、今後の改革の数々にも、是非ご注目ください!歴史伝 All Rights Reserved.