メインボーカルが藤圭子で、バックコーラスが宇多田ヒカルです。 HIKASO.Uではなくcubic U名義なので、おそらく13歳ぐらいの宇多田だと思います。ビブラートが素晴らしい。 そしてjazzyな藤圭子さんも … 最終回である今回の冒頭で、番組が終わる経緯について説明した宇多田。番組を始めてちょうど一年で終わることは「区切りがいい」と思ったという。その後は宇多田が「これまでかけようと思って、大事に大事に温めていた曲」を中心に、“デュエット”というテーマに沿ったさまざまな楽曲について語られた。その中では1993年にリリースされた藤圭子と宇多田のデュエット曲、“藤圭子 WITH CUBIC U” の「GOLDEN ERA」も「こっぱずかしいんですけど」という前置きをした上で選曲。父親である宇多田照實も参加したというこの曲について「家族としてこういうのが残ってるというのは素晴らしいことですね、ありがたいです」と少し照れたような声で語り、この日何曲かセレクトされた、恋人や家族の間で制作されたデュエット曲の温かさについても触れた。番組の最後ではリスナーへの感謝とともに、「ラジオが放送されたあと一定期間ストリーミングで聞けるとか、日本の著作権の法律はややこしいんですけど、ポッドキャストにして曲もかけられるっていうポジティブな方向に進んでいくといいなと思っています」と、番組を通して感じた自身のラジオ観についても展開。「ラジオと現代の生活スタイルとか、他のメディアを繋げるような変化があればいいな」と締めくくった。 音楽活動への復帰時期は今も明確ではない宇多田だが、今回の反響の大きさに、宇多田ヒカルの新しい音楽を待ち望むファンの多さが表れた形となった『KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru』。日本ポップス史上最高のセールスとなる765万枚を売り上げた、あのコラムPick Up!インタビューPick Up!「アーティスト分析」の最新記事映画部Pick Up!「宇多田ヒカル、ラジオ最終回で藤圭子とのデュエット曲オンエア「こういうのが残ってるのは素晴らしい」」のページです。© realsound.jp 表示切替: 2013年4月よりInter FMで一年間放送されていた宇多田ヒカルのラジオ番組『KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru』が、2014年3月18日の放送にて最終回を迎えた。 元演歌歌手の藤圭子は1969年に「新宿の女」でデビュー。1970年に「圭子の夢は夜ひらく」がヒット。1971年に歌手の前川清と結婚も1972年に離婚。1979年に引退を表明して渡米。1982年に音楽プロデューサーの宇多田・・・ 元演歌歌手の藤圭子は1969年に「新宿の女」でデビュー。1970年に「圭子の夢は夜ひらく」がヒット。1971年に歌手の前川清と結婚も1972年に離婚。1979年に引退を表明して渡米。1982年に音楽プロデューサーの宇多田照実と再婚。1983年に宇多田ヒカルを出産。1986年に宇多田照実と離婚したものの、1カ月たたないうちに再婚するなど、離婚、再婚を6、7回繰り返した。2013年8月にマンションから転落し亡くなっています。2013年8月22日の朝7時に新宿にある高層マンションより飛び降り命を断ってしまった藤圭子。宇多田ヒカルの母としても有名です。藤圭子は若い頃は歌手をしており、お金にも苦労することなく過ごしてきました。新宿のマンションでは、数年前から30代の男性と同居生活をしていたようです。幸せのはずが一体なぜ、自ら命を断つことになったのでしょうか?藤圭子は、娘・宇多田ヒカルが大ブレーク後に収入が激増した。ある音楽関係者が、「元来、頭の回転が早く天才肌だった」と振り返る。1998年12月のデビューシングル・Automaticがいきなりミリオンを達成。「そこからですよ、暮らしぶりが派手になったのは」(藤を知る人物)ただ、そこで目撃された藤は異様なものだったという。さらに金使いの荒さも目撃されていた。2006年3月に42万ドルをニューヨークの空港で没収された時のことを振り返り、「この5年間は、ほとんど日本には帰らず世界を旅行していた」とした上で、「飛行機はファーストクラス。各国最高のホテルに泊まった。5年間で5億円は使ったわ」と話していた。こんなこともあったそうだ。自ら命を断った原因は業界関係者もびっくりするほど、心当たりがないそうです。藤圭子は、男性依存が強いかったようですね。実は同じ男性も含め、結婚と離婚を7回も・・・。2013年8月、遺体が安置されている都内の葬儀場には宇多田の姿はなかった。3日過ぎても一向に姿を見せない宇多田。母との確執が囁かれていたが、実は宇多田は父・宇多田照實との確執があったという。東京・目黒区の碑文谷会館には50人ほどの報道陣がかけつけた。「レコード会社も頭を抱えていますよ。照實氏と連絡を取り合っているけど、宇多田本人とは連絡がつけていませんからね。本当に居場所を知らないのでしょう」(レコード会社関係者)本来なら母の元に駆けつけるのが普通なのだが・・・。宇多田は全国ツアーを行った。だが、違う県からもファンが来ていたので、完全中止にすると大ヒンシュクを買ってしまう。「宇多田は後に母とも過疎になりましたが、もともとお母さん子です。照實さんのことを今でも許していないのではないでしょうか。照實さんと母は何度も結婚と再婚を繰り返したので、母を追い詰めたのは父と思ってるのかも知れません」(同上)宇多田は、母が嫌いではなく、父と会いたくないから葬儀場にも姿を見せてなかったそうです。宇多田ヒカルは、ブログで声明をだしましたが、母は昔から精神病を患っていたと書かれていました。母が亡くなてから3日してもかけつけなかったのは、父と会いたくなかったのが原因とも報じられました。しかし、実は母と絶縁状態だったそうです。元夫・宇多田照實が乗った車でそのまま都内の斎場へと向かった。藤さんが西新宿にある28階建てマンションの13階から飛び降りたのは2013年8月22日の午前7時頃。部屋は74㎡の2LDKで男性が7年前に購入している。藤は18才の時に新宿の女で歌手デビューする。当初、子供は欲しくないと言っていた藤だが、1983年に宇多田ヒカルが生まれるとかわいがっていた。「鮮烈なデビューを飾った翌年には、藤さんの役員報酬は年間で5000万ほどになりました。幸運をもたらしてくれたヒカルさんとは、当初は仲むつまじい関係が続いていました。2000年には、ヒカルさんのツアーステージに藤さんが飛び入り参加し、圭子の夢は夜ひらくを披露するほどでした」(音楽関係者)「6度の離婚、再婚を繰り返した藤さん夫婦ですが、このころ、藤さんは照實さんと娘のプロデュースをめぐって何度も揉めていました。夫婦としてはもう修復できない関係になっていました。ことあるごとに、ヒカルをここまで成長させたのは私よ!と言い出す母の姿を見て、母娘関係も険悪になっていきました。ヒカルさんは照實さんと行動を共にし、母を避けるようになったんです」(同上)そんな互いを支え合う父娘の姿を見て、藤さんは疎外感から、さらにヒステリックになっていった。そして絶縁されてから、藤は5年にわたる海外放浪に旅立ったのだ。母娘の決別の代償に手にした大金は、彼女を極度の人間不信にさせてしまう。藤は、自らの体調不良をこう訴えていた。2013年8月、藤圭子の遺骨を巡って、争いが起きていたそうです。兄はこちらの墓に入れたい、夫・宇多田照實は宇多田家の墓に入れたいと揉めていたという。さらに、藤圭子は、兄とも確執があった過去があったようです。藤圭子をめぐる騒動は終わる気配がなかった。火葬後の遺骨を巡って騒動が起きていた。藤さんの遺志が通るなら、それも仕方ないと思えるが、離婚した夫が設ける墓に入るとなると、実兄の三郎氏が猛反発するのも仕方ない。しかし、照實氏は三郎氏と藤さんの対面を拒否するなど、意図的に遠ざけている節がある。舞台裏を知る関係者も、「照實氏は元来がセコイ人間。自分の金は最後に手をつけるタイプで、周囲からできるだけ金を引っ張ろうとしたそうです。ある会社社長も、都内の高級ホテルの家賃100万円を工面したが、それが当然という彼の態度に怒っていました」三郎氏と照實氏は骨肉の争いとなっているが、キーマンは宇多田だ。宇多田はその後、ロンドンに8歳年上の恋人で日本画家の福田天人氏と移住。藤圭子がなぜ、命を断ったのかは断定されていませんが、精神病を患っていたことが主な原因だと言われています。そして、遺言書も見つかったも報じられましたが、内容はまだわかりません。しかし、藤圭子は前々から叔母に死にたいことを打ち明けていたようです。純ちゃんが命を断ったと聞いた時、驚きました。(藤圭子の本名=阿部純子)無念の思いを語るのは、竹山幸子さんだ。私は1人兄弟の末っ子で、すぐ上の姉である澄子とは本当に仲良しでした。純ちゃんが、なぜ宇多田を選んだのか、これも悲しいけど運命だったのかも知れません。結婚当初、純ちゃんと照實さん、姉が広尾のマンションで暮らしていた時期がありました。さらに、純ちゃんは、照實さんとニューヨークで暮らすためにマンションを売却して。その頃、姉は綾瀬にマンションを買ってそこに住んでいました。純ちゃんは、歌手になって親孝行するのが夢と言って、広尾のマンションや世田谷のアパートを両親のために購入していましたが、照實さんと結婚してから、それらの財産はほとんど売り払われていました。西新宿のマンションに住んでいる男性についても、照實さんから、一緒に住むように指示されていた人だったそうです。生前、藤圭子は知人に「ヒカルちゃんが私を遠ざけているの」と漏らしていた。体調も悪かったし、母親や家族と断絶して、娘とも連絡が取れなくなり、寂しさもあったのでしょう。いつ頃、この話をしたのかは書かれていませんでしたが、死にたいことを漏らしていたようです。