パブロ・ピカソ (Pablo Picasso [ˈpaβlo piˈkaso], 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家。 またこの多視点による分解と再構成は、一旦新古典主義の時代に影を潜めますが、後年の「ゲルニカ」や「ドラ・マールの肖像」など、もっともピカソの作品を特徴づける重要な表現となります。 ピカソ作品④ 「アヴィニョンの娘たち」 1907年 243.9×233.7cm ニューヨーク近代美術館蔵 絵画の歴史に革命を起こしたとまで言われるこの作品では、ピカソは伝統的な遠近法を完全に破壊し、人物、背景を問わず小さな断片に切り分けそれを再構築しています。 ピカソ作品① 「科学と慈愛」 ピカソ作品② 「人生」 ピカソ作品③ 「サルタンバンクの家族」 ピカソ作品④ 「アヴィニョンの娘たち」 ピカソ作品⑤ 「マンドリンを弾く女」 ピカソ作品⑥「籐椅子のある静物」 ピカソ作品⑦ 「母と子」 「青の時代」におけるピカソの絵画作品には、「盲人の食事」、「悲劇(海辺の貧しい家族)」、「老いたギター弾き」、「酒場の2人の女(酒場の娼婦達」など、貧しい者・社会的弱者に共感を寄せるモチーフが一つの傾向として数多く残されている。 ピカソの「青の時代」の作品であり「青の時代」の集大成ともいえる傑作とみなされている。現在、クリーブランド美術館が所蔵している。ピカソの「青の時代」(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑で描かれた陰鬱な描写が特徴である。 つまり、ピカソがバラ色の時代から革新的なキュビズムを創作するまでの作風の変遷がハッキリ表れている作品なのです。 この革命的な部分が現代では評価されていると言われています。
1961年に結婚した妻ジャクリーヌ・ロックを描いた、“シュールレアリスムの時代”の作品。 2007年2月26日深夜から27日未明にかけて、パリ市内にあるピカソの孫娘宅から盗まれた一枚。 20世紀に活躍したスペイン出身の芸術家、立体派とも言われるキュビスムを確立したり、彫刻においても新たな創作技法を生み出したりなど、その幅広い芸術活動は後の芸術家たちに大きな影響を与えました。最も作品数が多いとも言われているピカソ。今回は、そんな彼の タップでお好きな項目へ:目次パブロ・ピカソピカソの作品は生涯にわたってその作風が変化し続け、時代ごとに区切ってそれぞれに名前が付けられています。ここではそれぞれの時代における作風の特徴や、主な作品についてご紹介していきます。「自画像」ピカソが20代前半だった当時の彼の作品たちはその名から想像がつくように、この時代の作品は全体的に青で統一感を持っています。作風の背景には、ピカソの深い悲しみが関係していました。彼は19歳のときに親友を亡くしていて、その悲しみを抱えたまま芸術活動を行っていたのです。ピカソの心中が昇華された作品はどことなく孤独感や不安をまとい、紺青の冷たい美しさが作品に深みを与えています。題材にも貧困層などの社会的弱者を多く採り上げていました。この時代の代表的な作品のひとつが、20歳の自分を描いたとは思えないほど年老いてやつれた印象を与えてきます。「パイプを持つ少年」恋人ができたことで徐々に精神が安定してきたピカソの作品は青だけでなく、暖色系の明るい色を取り入れるようになるのです。この頃の作品は「サーカスの時代」とも呼ばれていて、ピカソは恋人以外にも道化師などをモデルに選んでいました。そして古代ヨーロッパの彫刻作品などを研究し、造形性に対して強い興味を持つ時代でもありました。この時代の代表的な作品は、『サルタンバンクの家族』等です。「アヴィニョンの娘たち」キュビスム黎明期とも言われるピカソの作品はこの時代の代表作アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻などの影響を受けて制作されました。この頃に研究していた技法が、後の時代の作品たちにつながっていきます。「素人闘牛士」先述すると、「キュビスム」とは点や線を再構成することで、立体の本質を表現しようとする絵画の一派のことです。ピカソがジョルジュ・ブラックと共に確立しました。・ブラックと共にキュビスムを創始した1909~1912年「分析的キュビスムの時代」・コラージュ技法を用いた1912~1918年「総合的キュビスムの時代」からなっています。主な作品に『ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙』(1913年)などがあります。「海辺を走る二人の女」第一次世界大戦が終結したピカソの作品はこの時代では、古典的で写実的な技法を用いて独自の作品を制作していました。代表作に、等があります。この頃の彼の作品は、新古典主義とキュビスムが融合した作風で、写実性にドラマチックさが足され、デフォルメされた印象を受けます。「ダンス」シュルレアリスムとは、人間の無意識や夢の世界を表現する「超現実主義派」のことです。この頃の作品は、ピカソの妻に対する不満が大きく募った時期に描かれていました。妻との不仲によって精神的に不安定になっていたピカソは、この時代に化け物と言えるようなイメージの作品を多く残しています。主な作品に 「ゲルニカ」ここまで、ピカソの時代ごとの作風と主な作品たちをご紹介してきました。これらの時代を経て生まれた日本でも有名な作品が、この作品は1937年にスペインのゲルニカで起きた、ナチス軍による史上初の都市無差別空爆の様子を題材にしています。そして同時期のもう一つの有名な作品が「泣く女」モデルになった女性は、ピカソの複数いた恋人のうちの一人で、これらの作風は、キュビスム的な複数の視点から見たものを、ひとつの画面で表現する技法を用いています。ここでご紹介した2作品には関連性があり、『ゲルニカ』に描かれている女性は『泣く女』に影響しているのです。 今回は、スペインの芸術家ピカソの作品についてご紹介しました。いかがでしたでしょうか。最後に今回の内容をまとめると様々な作風によって描かれたピカソの作品。あなたはどの時代の絵画に心惹かれるのでしょうか。ピカソの年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> お越し頂きありがとうございます。©Copyright2020 ピカソによる他の有名な絵画としては、キュビスムの原点とも言える1907年の「アヴィニョンの娘たち Les demoiselles d'Avignon」が取り上げられる機会が多い。同作を見た友人のジョルジュ・ブラックはピカソの作品に同調し、以後二人は共同でキュビズムの追及に取り組んでいくことになる。<ピカソ作;「アビニヨンの娘たち Les demoiselles d'Avignon」>他にも、ピカソの愛人ドラ・マール(Dora Maar)をモデルにした絵画「泣く女」(1937年)も有名な作品の一つ。「泣く女」をモチーフとした … ピカソが20代の半ばで描いた「キュビズム」の代表作品は、5人の裸婦像を描いた『アヴィニヨンの娘たち』です。この作品が生まれる過程では、エル・グレコの『第五の封印』や、ベラスケスの『ラス・メニーナス』など、さまざまな作品が影響を与えており、またアフリカの黒人彫刻にもインスピレーションを得ました。 貧しい者・弱い者への共感 「青の時代」におけるピカソの絵画作品には、「盲人の食事」、「悲劇(海辺の貧しい家族)」、「老いたギター弾き」、「酒場の2人の女(酒場の娼婦達」など、貧しい者・社会的弱者に共感を寄せるモチーフが一つの傾向として数多く残されている。 こんにちは。管理人の河内です。この記事では、20世紀アートの巨人パブロ・ピカソの作品を解説していきたいと思います。その数の多さでギネスに乗るほどのピカソ、膨大な作品から選ぶのは至難の業ですが、ピカソは常に変化し続けるところにピカソの偉大さがあると言われるほど、その長い画業で様々に画風が変化した稀有な画家でもありました。そうしたことからそれぞれの画風の中から代表的な作品を取り上げてみたいと思います。目次1897年 197×249.5㎝ ピカソ美術館蔵ピカソ16歳の時の作品。すでに古典的な技法をマスターしているまさに天才ぶりを見せつける作品です。ピカソは「私は10代のでラファエロのように描けた」と語っていますが、反論できませんね(*‘∀‘)死の床にある女性とその子供、修道女と医師が見守っている図です。医師は「科学」の象徴、修道女が「慈愛」の象徴です。10代でこの技量に驚かされますが、選んだテーマもまた・・・早熟を通り越して老成すら感じさせます。 1903年 196.6×129.3cm クリーヴランド美術館蔵ピカソ「青の時代」の代表作。左の男女は悲恋の末、自殺した親友カサへマスとその失恋相手のジェルメールとされています。右側には母子像が描かれその間にも蹲る人物が描かれていますが、誰一人視線を合わせるものはなく皆絶望の中にいるかのように虚ろです。ピカソはこの他にも悲運の友人カサへマスを描いた作品を数点残しています。1905年 212.8×229.6cm ワシントンナショナルギャラリー蔵バラ色の時代の代表作。サーカス芸人一家を描いた作品です。”サルタンバンク”とは、”サーカス”というより路上芸人といえる当時としては社会的に最下層の人々のことをいいます。ピカソは青の時代より、サーカス小屋に通っては彼らを熱心に描いています。孤独、放浪、貧しさといった当時のピカソ自身の境遇や内面を彼らに重ねていたともいわれています。しかしこの頃からピカソの絵は売れ始め、名声を獲得していくようになっていきました。 1907年 243.9×233.7cm ニューヨーク近代美術館蔵絵画の歴史に革命を起こしたとまで言われるこの作品では、ピカソは伝統的な遠近法を完全に破壊し、人物、背景を問わず小さな断片に切り分けそれを再構築しています。また右側の二人の顔はアフリカの部族仮面に発想を得て描かれています。こうした複数の試みを、ピカソはこの作品で試しています。『アビニョン』とはバルセロナの売春街にある通りの名前。そして描かれているのは娼婦たちです。足下の果物は生命のシンボルで、命あるものは熟れた果実のごとく最後は朽ち果てるものと言うことを暗示しています。この作品を境に、ピカソの絵はいわゆる「分からない絵」に傾いていきます。しかし美術史的にはその後に与えた影響の大きさから、一つの金字塔的な作品と位置づけられています。 1909~1910年 100×73.6cm ニューヨーク近代美術館蔵当時の恋人であったフェルナンド・オリビエがモデル。『アビニョンの娘たち』を機に、ピカソは対象を様々な角度から見たいくつもの部分に分解し、それを画面上で再構築するというキュビズムの手法を展開しました。これはセザンヌの影響により幾何学的に対象をとらえようとする初期分析的キュビズム時代の代表作。 1912年 パリ ピカソ美術館蔵ロープで回りを囲った楕円形のキャンバスに、籐椅子の模様が印刷された紙などを張り付けた総合的キュビズムを代表する作品です。絵画史上初のコラージュ作品といわれています。ナイフやグラスなどが分析的キュビズムの手法で描かれており、現実のものと幻想である絵の世界を組み合わせたこの手法は、絵画を超えた平面作品の新たな世界を開きました。 1921年 シカゴ美術館蔵新古典主義時代の代表作。1917年、バレリーナだったオルガ・コクローヴァと出会い翌年に結婚したピカソは、この頃から陰影を使って量感を出すなど古典的な描法に回帰を見せます。 1918 パリ・ピカソ美術館蔵モデルはバレーダンサーでピカソの最初の妻となったオルガ・コクローヴァ。二人の間に息子パウロが生まれると、ピカソは新しい恋人マリー・テレーズと関係を持ち離婚沙汰となります。しかし遺産分割でもめた末に結局はオルガが亡くなるまで別居が続きました。(ピカソが莫大な遺産の半分を彼女に取られることを渋ったそうです。この頃イタリア旅行を通してルネサンス期の古典の名作に興味を示しており、またオルガの「わかりやすい絵を描いて」欲しいという意見もあってキュビスムから離れて古典的写実表現で描かれています。椅子と衣服は溶け合うように平面的に描かれていますがそれは当時ピカソが写真から絵を起こしていたことに寄るのかもしれません。 1922年 パリ ピカソ美術館この作品は地中海の太陽と汐風を浴びて浜辺を走る2人の女性がどっしりとして彫刻的な顔つき、太い手足など新古典主義的に描かれています。 1937年 テイト・モダン蔵 ロンドン当時の愛人ドラ・マールをモデルに、後の「ゲルニカ」のための習作の一点として描かれました。この泣く女には、100種類以上のバリエーションがあると言われています。感情をあらわにした女性が、キュビスム的な多視点分割技法を用いて強い暖色を多用して表現されています。 1937ソフィア王妃芸術センター蔵 マドリードパリでゲルニカ空爆の一報を受けたピカソは、パリ万博で飾るため他の絵を制作中でしたが、急遽のこのゲルニカに転換。短期間に膨大なスケッチを積み重ね、練り上げて描かれました。この絵をよく見てみると、戦争だけでなく闘牛や幼児虐殺などが書き込まれていることから、ピカソは人間の愚かな残酷さ一般に対して抗議をしていたのかもしれません。《ゲルニカ》についてはこちらにもっと詳しくご紹介していますので是非ご覧いかがでしたか?ギネスに乗るほどのたくさんの作品を残したピカソ。ここに掲載した作品以外にも、ホントにたくさんの名画がありますので興味が湧いた方は是非いろいろと探してみてくださいね。またそれぞれの時代について、技法の詳しい解説も合わせてご覧ください。 【ピカソに関するお勧め本のご紹介】初期のころから最晩年の作品までを網羅的に俯瞰できる画集。ピカソ本人にスポットを当てた本。一冊でピカソのすべてが分かる? 【その他のピカソに関するお勧め記事】この記事へのコメントはありません。この記事へのトラックバックはありません。1位2位3位4位5位6位7位8位9位10位Copyright ©