ジャガイモの歴史 (「食」の図書館) を読むと、もっと詳しく書かれていました。 1846年7月には、疫病はアイルランドのほぼ全域に広がり、ジャガイモの収穫量は88パーセント減少した。アイルランドのジャガイモは、ほぼ壊滅した。 春先から初夏は新じゃがの季節。ジャガイモが国民食といえるイギリスでは、なんと80種類以上の品種が栽培されている。チップス、ロースト、マッシュなどさまざまな料理法でイギリス人がほぼ毎日食べているというジャガイモの歴史と、奥深い魅力を探ってみよう。 じゃがいもの由来と歴史について見ていきます。南米を起源とするじゃがいもが如何にして世界的な食材となったのかについて、そして、じゃがいもが人口増加に与えた影響までを掘り下げていきましょう。じゃがいもは現代社会の食卓において、最も普及して欠かす 南米アンデスからメキシコにかかる高原地帯を原産とするじゃがいもが、慶長3年に日本へ持ち込まれ、北海道での栽培が行われた歴史。また、じゃがいも界のエリート「男爵」について、jaきたみらいでの栽培の歴史をご紹介。 1.ジャガイモの歴史. UA-77435066-1 イラスト入りコラムを約850点収録しています。ニュースレター制作のご相談も承ります。トウモロコシが世界「三大」穀物と言われていますが、さらにジャガイモも加えて世界「四大」穀物とも言われているくらい全世界で食べられるようになりました。ただし、ヨーロッパに伝わった当初は、あまり良く思われていなかったらしく、ヨーロッパで食用として定着したのは18世紀になってからでした。その理由は、ジャガイモの姿がそれまでのヨーロッパにはない醜いものと映ったためとも、ジャガイモの芽には毒があるため、あるいは聖書に出ていない食べ物だからとも言われています。日本にも17世紀には日本に入ってきており、食べられてはいましたが、それほど定着はせず、日本人の食卓に当たり前のように出るようになったのは明治以後のことです。そんなジャガイモですが、なんといっても芋の切れ箸を「種芋」として土に埋めておくだけで、荒地でも育ってくれるものですからありがたいもの。トウモロコシと同じように「貧民の食べ物」として、ヨーロッパに広がっていきます。なんといってもジャガイモは、栄養豊富。カンタンに栽培できる。地面の中で育つので、鳥についばまれる被害もない。ジャガイモはヨーロッパ人を飢餓から救い、また、ジャガイモを食べることで、ヨーロッパ人は飢え死にせず、次々と繁殖することができるようになりました。と、どうなるか?飢え死にせずに、ジャガイモを食べて、たくさん子作りをすると人が増えた分だけ、それだけ食料がいる。また、ジャガイモを栽培して食べる。子作りをして人が増える。と、いうことで、ヨーロッパ人は飢饉がきても、生き残る人が増えていきます。貧乏人の子沢山は世界共通。人口が爆発的に増えていきます。ジャガイモのおかげで、貧しい人たちは飢饉がきても、死に絶えることなく、何とか生きながらえ、人口を増やし続けていきました。人口が増え続けても、貧しいながらも何とか食べていけたのも、ジャガイモのおかげです。しかし、あるとき悲劇が起こります。19世紀に植物の伝染病が、ジャガイモ疫病が、ジャガイモを襲ったのです。しかし、ジャガイモ疫病はヨーロッパの人々にとって、初めての体験であり、なすすべがまったくわかりません。こんなとき、原産国である南米のアンデス山脈の人々は、疫病がきてもいいように、いろいろな種類のジャガイモを植えていました。たとえ、疫病が流行っても、その病気に強い種類は収穫することができるからです。そのような知恵もまだ、ヨーロッパ人は知りませんでした。全ヨーロッパにジャガイモ疫病による飢饉が起こります。特にイギリスに支配されていたアイルランドは悲惨で、領主はイギリスに住んでいるため、悲劇的な事情をまったく知らず、アイルランドの人々から搾取を続けます。アイルランドでも、ジャガイモの恩恵を多く受けていてジャガイモが定着するとアイルランドの人口は急激に伸びて行き、ジャガイモが定着していなかった17世紀のアイルランド人口は約100万人程度だったのですが、ジャガイモが入ってくると急速に人口爆発が起こり19世紀半ばには800万人を越えるほどの人口となりました。アイルランドは貧しい国でしたから、いかにジャガイモが貧しい人々の命を救い、人口増加に貢献したかがわかります。しかし1845年から1849年にかけてヨーロッパでジャガイモ疫病が大発生し、ジャガイモが壊滅状態になってしまいます。これは食料の多くをジャガイモに依存していたアイルランドの人々にとって餓死を意味することでした。アイルランド人たちは、バタバタと同朋が餓死していく中、搾取のみをしてなんの保護もしないイギリスに対して大きな憎悪を抱き、それがいまだに残っているアイルランド紛争にも繋がっているといわれています。アイルランドにおけるジャガイモ飢饉では、100万~150万人が餓死もしくはそれに繋がることで死亡し、約150万~400万人が北米大陸やオーストラリアなどに移民を余儀なくされました。当時の総人口が800万人以上いた当時のアイルランドの人口を考えるとこれがいかに異常なことであったかがわかるでしょう。そのためアイルランドの人口は激減し、いまでも19世紀より前の人口に戻っておらず、現在のアイルランド人口は450万人ほどとなっています。アイルランドにおきたジャガイモ飢饉によって、アメリカに渡った人たちには、アメリカ大統領となったケネディやレーガンのひいおじいさんもいました。ジャガイモはまさに世界の歴史に重大な影響を与えた食べ物でした。(食文化研究家 巨椋修(おぐらおさむ)/絵:そねたあゆみ)2013-12 コメントを投稿するにはおもしろコラム 主宰者:井上勝彦 〒414-0001静岡県伊東市宇佐美3629-52 ジャガイモはすでに紀元前7000年前から、南米のチリやペルーの高地に住んでいた人々(インディオ)にとって、トウモロコシと並ぶ重要な食材であった。 ジャガイモの文化史. Tweet トウモロコシと同じく、歴史を変えた食材として『ジャガイモ』があります。ジャガイモは南米のアンデス山脈あたりが原産地といわれていて、中南米を侵略したスペインからヨーロッパへ伝わったと言われています。 トウモロコシが世界「三大」穀物 じゃがいもは現代社会の食卓において、最も普及して欠かすことの出来ない食材の一つです。フライドポテトを始め、カレーやシチューの具としてなど、数々の料理の食材として利用されています。ジャガイモは近現代史の初期に突如として注目されて世界中に広まっていったわけですが、耐久性や貯蔵性に優れ、耕作も簡単。さらに、栄養価が高いという利点が、じゃがいもを世界的食材にしたことは間違いないでしょう。一方で、じゃがいもは当初、食材としては人気が無く、避けられていたこともあるなど、今日の人気を得るまでには紆余曲折もしています。この記事では、由来や起源を含め、このじゃがいもが世界的に人気な食材となるまでの歴史について詳しく見ていくと同時に、人類史の中でじゃがいもが人口増加を促した影響についても見ていこうと思います。じゃがいもの歴史は3億5000万年前頃から始まったと言います。その頃のじゃがいもは、有害なナス科の原種から進化し始めたばかりでしたそれからゆっくりと時間をかけて、南アメリカのペルーとボリビアの間にあるアンデス高地で、やがて現在の形になっていったと考えられています。約1万5000年前にアンデス高地に人類が入植し、野生のじゃがいもはいつの頃からか、人によって栽培されるようになっていきました。じゃがいもの初めての栽培化の時期に関しては諸説ありますが、最も古いものでおよそそれ以来、じゃがいもは南アメリカ大陸全域にゆっくりと広まり始めました。そしてスペインからの探検者であり征服者である「南米においてコンキスタドールが発見したさまざまなものの中で、じゃがいもは非常に大きな関心を集め、ちなみに、当初スペイン政府は、信頼性が高くて運搬が容易な食料として、じゃがいもを陸軍や海軍で使用していたという話があります。その話によると、兵士たちはじゃがいもを食べている間、ビタミンCの欠乏によって起こる壊血病一方、じゃがいもはゆっくりとしたスピードながら、着実にヨーロッパ全土にも普及していきました。と、他のヨーロッパ諸国へ広まっていったのです。しかし残念なことに、それらの国の人々はじゃがいもを、と見なしており、中には、と考える人もおり、当初は花や実を楽しむこのことについては、ヨーロッパは原産地から遠く離れていたため、といった状況によって、といった悪評が長年に渡って立てられたことが主な原因です。ヨーロッパでじゃがいもに関する悪評が静まっていったのは、18世紀に入ってからのことでした。当時、西ヨーロッパは食料飢饉に襲われていたこともあり、特に、ドイツとフランスでの取り組みは比較的良く知られており、また、フランスでは有名な植物学者で化学者だったアントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエが、当時のフランス国王ルイ16世に、食料対策としてじゃがいもの大量栽培を奨励するように進言。ルイ16世はパルマンティエに資金と、じゃがいもを栽培するための土地約40ヘクタールを与えました。このような政府主導の大規模な取り組みによって、ヨーロッパの人々はたちまちじゃがいもに関心を持ち、その以降、次第にじゃがいもは食材として取り入れるようになり、1800年代の初めにはヨーロッパ中で食べられる日常的な作物になっていたのです。ただし、1845年~1849年にアイルランドにおいてじゃがいもの疫病による凶作が続いた結果、じゃがいもの人気は厳しい試練に再びさらされてしまうこともありました(ちなみに、主にフランスにおけるじゃがいもの人気上昇に貢献したと言える人物の中に、有名な彼女はじゃがいもの花を髪飾りにして、楽しんでいたことがありました。マリーアントワネットは当時、フランスを中心に女性の間では一方で、じゃがいもが日本に伝わったのは、ヨーロッパ全体へじゃがいもが知られるようになったとほぼ同時期の、東南アジアのジャワ島のジャガタラを経由してオランダ人によって持ち込まれ、ヨーロッパと同様に、当初は食用としてはあまり普及していませんでした。ちなみに、その後、江戸後期には食用して少しずつ栽培が推奨されるようになっていき、明治維新以降にそして、西洋化を図った日本で西洋の食文化が普及していくのに合わせて、じゃがいもは食材として広がっていきました。20世紀になるとじゃがいもは、最も好まれ、かつ最も生産量の多い食料源の一つとして世界中で普及し、ヨーロッパを始めとした多くの国で、事実上、最も重要な作物となりました。じゃがいもは高いカロリーが摂取出来る食材であり、また、種類が豊富なために世界中のあらゆる料理に使用することができる食材だという点も、このことを後押ししました。そして現在は、普段の食事にも欠かすことの出来ない世界的な食材となっています。ヨーロッパの食卓にじゃがいもが登場した結果、農家の人々がより多くの食物を生産できるようになっただけでなく、上で示したフランスやドイツの例の様に、さらに、栄養価の高いじゃがいもは、壊血病、結核、麻疹そして赤痢などの疫病による影響を軽減する役割も果たしただけでなく、その結果、ヨーロッパとアメリカを中心に、じゃがいもが食卓に普及した地域においては大幅な人口増加が起こる結果となったと考えられています。ここで歴史を振り返って、じゃがいもが人口増加を促した例として、イギリスとアイルランドのケースを挙げてみましょう。歴史学者の間ではしばしば、じゃがいもの普及がという点が議論されることがあります。1800年以前のイギリスの食卓は肉類が主であり、これにパン、バターそしてチーズが添えられる形でした。野菜類の摂取は限られており、多くの野菜は「しかし1700年代後半から、この考えに少しずつに変化がみられるようになります。産業革命により人口が過密する都市部に住む人々の数は、さらに増加し続けました。オーブンや貯炭場が設置された住居に手が届くのは一部の富裕層にとどまり、12時間から16時間労働をこなす人々にとって食事を準備する時間や余裕は限られたものでした。このような状況において、結果、イギリスの人々の間でも、食材としてのじゃがいもが瞬く間に認識されて好まれるようになり、じゃがいもの消費量も増加していきました。そしてこの時期に重なるように、1801年から1851年にかけて、イングランドおよびウェールズではこれまでにない爆発的な人口増加が起こったのです。じゃがいもの普及が人口動向に影響を与えたと考えられる最も大きな例は、アイルランドでみられました。アイルランドでは1800年になる頃にはじゃがいもが主食となっていましたが、1780年から1841年の間にアイルランドの人口は、それまでの二倍の800万人に達したのです。これに関しては、じゃがいもの収穫のしやすさによって、じゃがいもの豊富な供給量は、乳児死亡率を大きく低下させ、早婚を促す結果となり、人口増加に繋がっていったようなのです。ただし上述したように、1845年から1849年の4年間に渡って、疫病によってじゃがいもが大不作となると、食料をじゃがいもに依存していた多くのアイルランド人は飢えに苦しみ、その結果、餓死や病死、国外脱出などが起こり、人口数は最盛期の半分にまで落ち込みんでしまいました。じゃがいもの由来と歴史について詳しく見てきました。南米を起源に持つじゃがいもは、現在でこそ世界的な食材となっていますが、そうなるまでには紆余曲折してきたことが分かります。当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。